新・日本紀行(32)津 「津と藤堂高虎」
津 城(安濃津城;藤堂氏代々の居城)と藤堂高虎像
「伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ
尾張・名古屋は ヤンレ 城で持つ」
・・と伊勢音頭で唄われている。
もっとも伊勢音頭といっても関東節・伊勢音頭、正調・伊勢音頭、古調・伊勢音頭、道中・伊勢音頭と多彩にあるらしく、共通なのは冒頭の唄いだしが、すべからく「 伊勢は津で持つ・・・」から始まるという。
世界で一番短い名前の街・「津」は、仁徳天皇(古代大和朝廷期・古事記の頃)の昔は「安濃津」と呼ばれ、日本三津の 一つとして栄えた名港であった。
そのため、市内には至る所に 名所、旧跡があり、当時の面影を色濃く残している。
日本三津とは中国から見た三つの重要な港を意味し、中国との貿易港の一つとして機能していたといわれる。
薩摩の坊津(鹿児島県坊津町)、筑前の博多津(福岡県福岡市)、それに伊勢の安濃津(三重県津市)である。
安濃津は明応7年(1498年)の大地震による破壊的被害で集落は15世紀代に一旦廃絶する。
城郭造りの名人・藤堂高虎が伊予今治から加増転封となって、伊賀国・伊勢国の津・伊賀上野城主となったのは関が原合戦後の慶長13年(1608)の事だった。
高虎は先ず織田信包が築いた津城(現、津城址)の大改築を行ない城下町を整備し、同時に津の街並みの整備に取り掛かる。
政治の要としての丸之内や 武家屋敷、町屋、商屋、寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを行い、 現在の津の町の礎をつくった。
津の城下では北に安濃川が流れ、南に岩田川が沿っている、そこから堀川を掘って入船出船とした。
藩主殿様もここから御座舟で伊勢湾から外洋へ向かったといい、今でも船頭町などの町名が残る。
又、町はずれを通っていた御伊勢参りの伊勢街道を城下に引き入れ、宿場町としての賑わい発展を図ったとされる。
現在の津の街並みの整然とした姿は、高虎の都市構想を往時に見ることが出来る。
又、大都会にありながら海岸線の優美さは特筆すべきもので、海水浴場や風致施設の臨海公園、大学施設等、古くから開けた文化の香りがする。
これも高虎以来の町造りの理念が現代に生かされているのである。
戦国武将・藤堂高虎は一農民として近江国藤堂村(滋賀県甲良町)に生まれている。
はじめ近江の浅井長政に仕え、その後、織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉))に見出され、徳川家康にと、歴代三君に仕えている。
関ケ原の戦いにおいては東軍に属し、その功により戦後、伊予今治に20万石を与えられる。 江戸城改築などにも功があり、最終的には伊賀・伊勢津藩32万石に加増されている。
家康の信頼はとりわけ厚く、外様大名にありながら側近として遇された。
大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、『 国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ 』と述べたとも言われている。
徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。
家康の死後は日光東照宮の造営にも当たっている。
高虎は、築城技術にも長け、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城などの築城、名古屋城の修築などでも知られる。
次回は「伊勢平氏」
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