新・日本紀行(11)戸田 「造船と日露友好」
国道136号線は土肥からは中伊豆の湯ヶ島から伊豆中央道(下田街道)にも通じている。
小生は、土肥からの海岸沿いの県道17号(沼津土肥線)で大瀬崎へ至ることになる。
この辺りは、本州にも近い伊豆半島の付根付近に在りながら、急峻な山岳地であるため近年まで陸の孤島的存在であった。
車道陸路が通じるのは近年の昭和に入ってからで、尚、暫らくしてからのことであった。
この日は平日とあって道は交通量は少ないものの、九十九(つづら)折れが多く極端に狭い所もあり、対向車には充分注意しながら舟山の展望駐車帯に着く。
本来、富士の展望が秀麗なところだが、今朝は薄雲がその姿を隠している。
七曲を繰り返しながら、戸田(へた)の小さな港へ着いた。
波止場に面した処に、程よくコンビニ(ヤマサキ)があって、戸田の美しい港を見ながらの朝食となった。
御浜岬の先端部の真っ赤な鳥居が印象的である。
戸田港の防波堤のように延びる「御浜岬」(戸田観光協会)
小生個人的には、「戸田村」は西伊豆では最も好きな地域であった。
東名高速を使うと比較的短時間で行けるし、港や顎の形をした静かな御浜湾と御浜岬は、美景であり心が和む。
子供達が未だ幼少の頃、夏の時期に何度も訪れたことがあり、御浜の白い砂浜での海水浴は実に良かった。
「戸田村」は、最近までは伊豆半島そして静岡県として唯一つの村域だったが、平成の大合併で無理やり・・?、沼津市と吸収合併されたようである。
ところで、今般の平成の合併劇で「村」が、隣の町や市と吸収合併されて、どんどん姿を消しているという・・!!。
しかし、中には行政上、何とか遣り繰りして村を存続させる。 或いは、「 多少の財政上の困難さを覚悟しても、おらがの村はそのまま残すんだ・・! 」という声も聞こえる。
更に、地方の何処かの「村」は、”合併して本来は町か或るいは市に昇格せれるべきところを、わざと村(むら)として存続させた”という事例を聞いた事もある。
その行政の長が曰く、
『 今、「村」は貴重な自然豊富な地域なのであり、素朴な人々が住む桃源郷のようなものである。 村は、風土的にも日本の原風景でもあり、貴重な自然遺産でもある。その貴重な「村」という名目が、行政上の損得勘定で無くなってしまうのは、いかにも残念である 』と、 合併相手の町長もしくは村長も、その意を汲んで「村」として新たに発足したという。
合併しても尚且つ、本来町以上の行政組織に成るところを敢えて「村」とした、その行政の長に改めて敬意を表したい。
尚、「村」としての行政上の立場は、憲法に基づく地方自治法においては「村は地方公共団体の一つで、都道府県と対等の関係にあり市・町と並立する」としている。
「村」の読み方を「そん」、「むら」のどちらになるのかは各自治体で規定しており、「そん」で統一されている県、「むら」で統一されている県、「そん」「むら」が混在する県があるという。
因みに、行政単位の「村」がない都道府県は西から長崎県、佐賀県、山口県、広島県、兵庫県、愛媛県、香川県、福井県、石川県、滋賀県、三重県、栃木県そして静岡県である(2008年4月現在、13県)。
その静岡県は2005年4月、「戸田村」が沼津市と合併したことから村としての歴史に閉をじ、村の無い一県になったのである。
この静かな戸田の村に江戸末期、意外な歴史が存在した・・!!。
江戸末期、この戸田の港にロシア人が大挙して訪れ、その後、この港でこれらのロシア人を帰国させる為に、日本で初めての洋式船「戸田号」が完成し、無事ロシア人を祖国へ送り届けたという。 ロシア人・47人の命をである。
1854年、ロシア使節・プチャーチンが、日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。(この項は先般「下田」の項で述べた)だがこの年(安政元年)11月4日午前、マグニチュード8.4の巨大な地震が東海地方を襲う。
後に安政の東海地震と呼ばれたこの震災は、大きな津波を伴い下田の町も一瞬にして呑み込み、被害は町全体に及び、875戸中871戸が流失全半壊し、死者は122人と全滅に近い大惨事になった。
津波によって生じた渦巻きにより停泊していたディアナ号も大破してしまい、その時に、亡くなった水兵の墓は今も下田・玉泉寺の敷地内に残っている。
損壊したディアナ号は、船底に穴が空きロシアに帰れる状態ではなくなり、取り敢えず修理をする為の港を捜していた。
そんな時に湾が入り江を成して、しかも三方が険しい山に囲まれ、情報が漏れにくい戸田湾を選定したという。 しかもこの戸田村を探し当てたはロシア人という。
そして、ディアナ号が下田から自力で戸田に向けて出航したが、途中、駿河湾で座礁し、さらに曳航中、嵐に遭って現在の富士市の富士川河口付近の三四軒屋(現富士市三四軒屋)沖で遂に沈没してしまう。
この時、ロシア人達は三四軒屋から、収容施設の整った戸田村に徒歩で一泊二日の行程で整然と並んで戸田村にやって来たという。(ロシア人達は船は懲りたので、駿河湾岸を歩いたともいう)
因みに、富士市五貫島の「三四軒屋緑道公園」の一角にディアナ号の錨が展示してある。
全長4メートルの大きな錨と並んでプチャーチンの提督像が立ち、この地がディアナ号ゆかりの地であることを今に伝えている。(昭和51年8月に三四軒屋沖の海中から引き揚げられたものであるとか)
その後、ロシア人が帰国する為の船の建造が急がれた。
戸田号はロシア人が帰国する為の船であり、津波の影響で結局、駿河湾へ沈んでしまった軍艦・ディアナ号の代替として造られた。
はじめは言葉の障害もあり、大変な難工事だったという。
ロシア人は早く帰りたいと願い、日本の船大工も職人の誇りを掛けて外国へ安心して航海できる丈夫な船をとの思いが通じ、僅か、三ヶ月で出来あがったという。
この時出来上がったのが戸田号で、日本で初の洋式船舶であったという。
「戸田号」は戸田村を出航した。
太平洋から津軽海峡を渡り、樺太のアムール川をさかのぼり、後は歩いてサンクトペテルブルグまでプチャーチン以下47人は無事に着いたという。
この地の船大工による洋式造船技術を習得したことが、後の日露戦争、太平洋戦争、そして戦後まで続く造船大国の礎となったともいわれる。
第一号として洋式船・戸田号が完成して以来、その後何と同型艦が11隻も作られ、開国要求のために当時の鎖国体制を破って入港してくる諸外国の艦船に対する守りとした。 ただ、この時携わった技術士、職人、船大工達が、その後、全国に派遣されていったことは余り知られていないという。
そして、石川島、三井、三菱などの現在では世界に名を轟かせている造船会社も、発足当時は、この地の船大工、職人の獲得に凌ぎを削っていたという。
戸田号を造船した所は「牛ヶ洞」と言うところで、県道の岬入口辺りに、この名前のバス停がある。
そしてその地に、「戸田号造船地、日本洋式帆船発祥記念碑」の石碑が立っている。
戸田号を建造した戸田の職人のうちの一人に「上田寅吉」がいる。
洋式船舶の造船技術を会得した彼は、後に長崎の海軍伝習所の一期生に入り指導的立場で活躍した。 当時彼は平民ではあるが給金を貰い、後に苗字帯刀(江戸期の武士の身分の象徴)を許されたという。
同期生には勝海舟がいた。
後に海舟は咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断していることは周知である。
二期生には榎本武楊がいて、後の開陽丸の建造に携わる。
間もなく明治維新となり、上田寅吉は榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になるが、明治三年釈放されて横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成っている。 又、長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造製している。 後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の艦船のほとんどを設計したという。
「緒明菊三郎」(おあき きくさぶろう)は、戸田号造船時には13才だった。
雑役をしながら洋式造船の技術を学び、後に江戸に出て船舶業て財を成し、東京のお台場で緒明造船所を造った。
日清戦争、日露戦争の頃は日本の造船、海運王にまで成ったが、お台場の土地を使用出来たのは同じ戸田村の出身の船大工、上田寅吉の縁で榎本武揚が世話をしといわれる。 その後、緒明家は静岡銀行の創業者して著名である。
因みに、プチャーチンは明治14年明治天皇から外国人では始めて、日本で最初に最高の勲章・勲一等旭日章を授与している。
帰国した彼が和親条約の改定や通商条約の締結交渉で、その後、数度来日している。 その時に、航海中の和船が、時化でカラフトなど北方へ流され、漂流民となった日本人を親切に扱い度々帰国させたという。 その数は何十、何百人とも言われる。
人道上最大の貢献をしたということで、日本で最高の勲章を貰ったのである。
岬の先端、赤い鳥居のある猪口神社の近くに造船郷土資料博物館がある。
安政元年(1854年)に戸田沖に沈没したロシア軍艦・ディアナ号艦長プチャーチンの遺品や代船(戸田号)建造の記録が保存展示されている。
又当時、現地で三人のロシア人が死亡したとされ、それらの霊が宝泉寺に眠っている。
戸田町の南外れに、その「宝泉寺」があり、ロシア使節のプチャーチン提督が泊まった寺として知られる。
船が完成までの約三カ月間、ロシア船員も滞在し、境内には滞在中に亡くなった乗組員の墓がある。
ところで、今年(2005年)は日露修好150周年記念に当たる。
ロ日友好協会では、ロシア連邦サンクト・ペテルブルグ市、国内では下田市、戸田村、富士市の各地で祝典行事が行はれたという。
戸田村(現沼津市戸田)の海岸に建立されたモニュメントの除幕式を行い、又、下田市の海岸で開かれた政府主催の記念式典には外務省の招待で関係者、山口戸田村代表が出席した。
この式典には日本側から小泉首相、ロシア側からロシュコフ駐日ロシア連邦大使も出席し、日露両国の恒久的な友好関係の樹立を誓い合った。
「戸田」は日本造船界の礎であり、日露友好関係の原点でもあったのである。
「夕映えの丘」の高所から見る、戸田港と御浜岬の景色は抜群であった。
井田の村落も美しいところである。
額ほどの田んぼの向こうに、ひっそりと集落が並んでいる。井田地区は「美しい日本の村」景観コンテストで「全国農業協同組合中央会会長賞」を受賞したという。
高い位置より大瀬崎を眺めながら駿河湾の内浦を行く。
今までの山腹道路と違って本来の海岸線を行く、やや入り江になっているため穏やかな海面である。
次回は源氏の故里・「伊豆長岡」
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