新・日本紀行(10)堂ヶ島 土肥 「温泉と金」
堂ヶ島の絶景とホテル群
松崎を過ぎると程なくして「堂ヶ島」である。
新緑の松林越しに深青な海の色が対比をなして実にいい。
西伊豆には珍しくニュー銀水、堂ケ島温泉ホテル、小松ビューホテル、アクーユ三四郎といった巨大ホテルが自然にマッチして建ち並んでいる。
堂ヶ島温泉は、化粧の湯(美人の湯)と言われるように良質の温泉がフンダンに湧出している。
又、「伊豆の松島」と称され、伊豆を代表する景勝地として知られるように断崖絶壁の奇岩・奇勝と相俟って富士の夕日は有名である。
堂ケ島で一際美景なのが三四朗島であろう。 干潮時になると幅30mの石の橋で陸地と結ばれ、歩いて渡ることができるという。
所謂、陸繋島(りくけいとう:砂州によって陸地とつながった島)の島で、この石の洲を土地の人は古くから瀬浜と呼び、海静かな春の干潮の時は磯遊びの好適地となっている。
洞窟の天井に穴の開いた「天窓洞」に入る遊覧船も人気らしい。
この洞内には鎌倉洞と呼ばれる穴があり、伝説によれば、この洞は鎌倉まで続いていると言われているらしい・・?。
昭和10年の早春、歌人・与謝野鉄幹・晶子夫妻が堂ヶ島を訪れた際に詠んだ詩。
『 島の洞 奥に窓あり 潮ゆれて
孔雀の色を 我が船に投ぐ 』 鉄幹
『 堂ヶ島 天窓洞の 天窓を
光りてくだる 春の雨かな 』 晶子
堂ヶ島からは国道136は山中へ入る。
トンネルも多いが、道路は良質ですれ違う車も無く、快適である。
田子、安良里といった海岸へ通ずる道が時々交差する。 ミニ山岳ハイウェイといったところか。
まもなく宇久須川の河口の小さな平野部に出た。
チョッとした家並みが並ぶ「宇久須」というところである。
ひなびた漁港にある穴場的な場所で夏の海水浴客は人気、通常は海釣りのスポットでもある。国道沿いに日帰り入浴施設もあり、豊富な湯量が湧き出る。
泉質はリュウマチや神経痛などに効能があると言われている硫酸塩泉で、民宿が主の宿泊施設が多いが、ホテルニュー岡部といった大ホテルも在った。
港の両端は黄金崎や恋人岬といった景勝地もあり、その名の通り夕日を浴びて岩肌が黄金色に輝くという。
又、港から内陸の山岳地へ向かう仁科峠に通ずる山道がある。 その先には標高700~800mの場所に宇久須牧場広がる。 近くに宇久須キャンプ場も在り、晴れた日は宇久須の港と駿河湾が一望できる。
伊豆といえば「海」と頭の中でイメージする人も多いと思うが、”伊豆の山々・・・、”の歌の文句のように、伊豆は山地のイメージもつよい。
宇久須の海岸から再び国道は、山地へ入り山際をグングン登る。
明るく見通しの良い道で、常時、彼方の海岸線が見えてる。上りきった辺りにかなり大きく、立派な施設のある展望台へ来た、「恋人岬」とあった。
さすがに展望抜群で、大海原が眼前に開け、左方角に宇久須の港が見下ろせる。
手形のモニュメントの横に、駅風の案内板があって・・、
『 ここはこいびとみさき、といおんせんから、つぎはけっこんへ 』・・と掲示してあり、熟年で一人旅の小生にとっては、いささか苦笑気味であったが。
岬の本来の展望台はこの先500m位先にあるようだ。 途中に愛の鐘というのがあった。
若いカップルが、おて手つないで思いに耽り、ゆっくり散策しながら、愛の鐘を鳴らして下さい・・!!
史跡・土肥金山」に展示されている金塊; ;実物で、さすがに三菱財閥である
(、1gいくら位であったか現在の金価格と比較して計算してみてください)
西伊豆・土肥
何年か前だか定かでないが、「上さん」(妻)と土肥周辺を周遊観光した折、泊まった宿屋が「牧水荘・土肥館」であった。
港よりやや奥まった処の旅館(ホテル・・?)で、露天風呂の豪快さに驚いたもんだった。
天然掛け流しの豊富な温泉に、西伊豆随一を誇るといい、数種類の大露天風呂や洞窟風呂に我々はびっくり仰天し、一晩とはいえ大満足したのを覚えている。
「牧水荘・・」の由来は大正期の悠遊歌人といわれた「若山牧水」が伊豆周巡の際、この土肥館をこよなく愛し、延百余日に亘って百数十の詩歌を詠み、晩年は常宿としていたことによるという。
『 幾山河 こえさりゆかば 寂しさの
はてなむ国ぞ けふも旅ゆく 』 牧水
牧水の残した、遺作品や遺品が多数、館内に飾ってあったのを記憶している。
四季温暖な気候に恵まれている土肥温泉では、明治以来多くの旅人が避暑、避寒に来遊しており、その中には著名な文人・墨客が宿泊逗留したという。
大正の頃には牧水のほかに、島木赤彦、与謝野鉄幹晶子夫妻をはじめ倉田百三、三好達治、川端康成、中島敦、井上靖、堀江史郎などが土肥を訪れ取材し、土肥を背景にした作品を作り出し、文学で見る近代土肥温泉の歴史でもあったという。
もっとも、「土肥」が最も賑やかになったのは、「土肥金山」が発見され、採掘による事業振興があったからだ、ともいわれる。
室町初期に発見された金山は、江戸時代に第一期黄金時代を、明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った伊豆最大の金山である。
推定産出量は、金40t、銀400tといわれ、 昭和40年に閉山している。
坑道の総延長は述べ100km、海底180mまで掘り起こしているという。
一般に、金・1g採取するのに金鉱脈の岩石350kgを掘り出す必要があるといわれる。 金鉱岩石は掘られた後、微細に砕かれ、水洗いし、選別される。 これを何回も繰り返して金の粒子を取り出し、その後、高温の炉で精錬される。 純金(99.99%、一般にフォーナインと言っている)40t採掘するのに、どの位の金鉱岩石を掘り出したか計算して戴きたい。
金鉱山の跡地は、今は観光用として利用され、江戸時代の採掘作業の風景を等身大の電動人形が再現をしている。
因みに現在まで世界各国で掘られた金の全採掘量は、概ね 25mプール一杯分とかと、どこかで聞いた・・?
我が家に1kg(三菱M製)の金のインゴット(純金塊)2個所有しているが(これは内緒・・?)、こちらの黄金館(資料館)には 250kg(三菱マテリアル製)の大金塊が展示してある。
現在の金相場を1g≒1500円として、・・??、世界最大の金塊としてギネスに登録されているとか。
尚、この資料施設を運営しているのは土肥マリン観光株式会社というが、実質、資本経営(親会社)は三菱M、つまり三菱マテリアル(株)という非鉄金属の製錬、金属加工の会社である。
「土肥」(とい)という地名は、その昔伊豆の先住人達が温泉が土中から沸き、金が産出される二毛作・・?に適した肥沃な土地であることから、「土が肥ゆる」で土肥の字があてられたともいわれる。
土肥の山中に中村という在郷がある。
「湯河原」の項でも記したが、平安期、相模の国の湯河原は「土肥の郷」といわれ、郷主・土肥実平は頼朝時代には信頼厚い側近であった。
実平は桓武平氏の中村氏の中村宗平の次男とされている。
つまり、その祖先は西伊豆の土肥の庄ではないか・・??と極一部いわれるが、史実には無いらしい。
現在、土肥は行政上の呼称は土肥町とは呼ばない。
政府指令の平成の大合併において、早々、2004年 4月1日- 静岡県田方郡修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町それに土肥町の4町が合併して、「伊豆市」として市制施行している。
因みに行政名は土肥支所になり、本庁市役所は修善寺(旧町役場)になっている。
次回は「戸田の造船」
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