(ベンジャミン・ディスレーリ;イギリスのヴィクトリア朝期の政治家、首相 )
平成日本紀行(215) 輪島 「越の国」 .
古代のある時期まで、富山から東は縄文遺跡、福井から西は弥生遺跡が多いと言われる。
そんな中で石川県能登地方は両者が拮抗しているいわば縄文と弥生の接点になっている地域であった。
この地は縄文期におけるアイヌの痕跡もあり、アイヌ語も色濃く反映しているという。
「能登」の地名の由来もアイヌ語の「ノッ」で「岬、あご」という意味だそうで、「ノッ」が「能登」というように変化したというのは納得である。
この頃の、国としての名称は能登を含む北陸一体は「越の国」といわれた。
今の新潟から福井・若狭にかけての越後、越中、越前である。
これには日本列島へ中国江南の「越人」(※)が直接、又は、朝鮮半島南部を経て到来し、青銅器や稲、鉄器を中心とした弥生文化を伝えたものとする一説がある。
その意味で、「越」の地名が日本列島にあっても、特に不思議ではない。
北陸地方の「越」が、越人に由来するかどうかは確定はされてないが、おそらく、中国の「越」という国名、地名が先にあって、それが「古志」や「高志」、又は「越智」などの漢字表記の際に当てられたものではないかともされている。
尚、北陸における「越」の地名は、京(平安京)に出向くのに山を幾重にも越えてゆく、遠方の北の陸地(北陸地方)であるから名付けられたとする説もある。
だが、実際はこれよりはるか以前(奈良期以前に・・)に、既に「越」というのは存在していたという説が大勢らしい。
(※)紀元前8世紀頃の古代中国・春秋時代における中国江南地方・長江下流域に「呉」、「越」などの国があり、中流域に「楚」があって所謂、古代春秋三国時代といわれた。 古代中国の物語として呉、越の国の争いで、「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」という故事が生まれたとする。 尚、古代中国江南地方は稲作発祥の地とされていて、一方、現在のベトナムは漢字で書けば「越南」であり、この地は現在の浙江省周辺にあり、古代中国の江南地方に当っている。
紀元前3、4世紀に日本に成立した稲作は、この中国長江流域が元祖といわれる。
又、同時期に金属、鉄器が大陸で発明されていて、これらの総合文明が縄文期の未開の文明を刺激しないはずは無く、後年、日本海の狭い領域を超えて九州、山陰、北陸の地へ次々と移入してくるのは必須であった。
この当初の日本は、日本神話で語られる神代の時代であったが、その後、大和王権(後の大和朝廷とは異なる)が設立されるに及んで、日本各地を席巻、統一してゆくことになる。
同時に、日本民族の文明が大陸によってもたらされ、所謂、大陸ルーツの文明が花開く時期でも合った。
古代中国の越人によってもたらせれたかどうかはさておき、移植された「稲」は各地を点々しながら越前の地(福井平野とその周辺)に、ひとまず定着したとされる。
飛鳥、奈良期における越前の米の石高は国内一であり、越前は日本一の裕福な国であった。(今でもそうらしいが・・?)
この頃、越前の国の富を背景に、越前出身とされる継体天皇(けいたいてんのう:第26代天皇、応神天皇の5世孫)が、大和朝廷の大王(天皇)として迎えられたといわれる。
大国・越の国は、奈良期の7世紀後半、律令制によってに分割され越前、越中,越後の三つの国に分かれた。
さらに、養老2年(718年)には、越前の国から羽咋、能登、鳳至、珠洲四郡を割いて「能登国」とし、弘仁14年(823年)には、江沼、加賀の二郡を合して「加賀国」としたとする。 この時点で近代の北陸地方の地域名が固められたという。
次回、「能登・御陣乗」