平成日本紀行(215) 輪島 「ぷらっと訪夢」 .
旧輪島駅の「ぷらっと訪夢」
旧輪島駅ホームと「シベリア」行きの次駅表札
能登道路の終点である穴水の此木から、一般道を「輪島」に向けて走ることにする。
途中、別所丘P.Aで一息入れる。
このPAは、僅か数台のみの駐車場で、実に小規模でサッパリしたところである。
だが、目の前にはこの名に因んだ「別所岳」がドーンと座っているし、エリア内には小さな丘があって、そこから能登島や能登の海・七尾湾が一望できる絶景の地でもある。
此木から輪島までは内陸の一般道・県道1号線(輪島-七尾線)になる。
古い手持ちの地図には能登鉄道が、この道路と並行して輪島まで達しているのだが、実は極最近の2001年に乗客減少が著しいということで穴水⇔輪島間が廃止されたのである。
克っては、能登観光の交通は、金沢からJR七尾線が七尾まで、更に七尾から輪島までの鉄道が走り、金沢から直通の急行「能登路」や自社のパノラマ気動車を使用した急行「のと恋路号」が運転されていたらしいが、しかし、時代の趨勢には勝てず穴水~輪島は廃線となってしまった。
因みに、穴水から半島の東部を行く「のと鉄道能登線」(穴水⇔珠洲市蛸島)は、その後も暫く存続していたが同様に乗客の減少が続いており、遂に2005年3月限りで全線が廃止され、路線バスに転換されたという。
ただ、廃止決定後、地域住民の活動が活発化し、2005年3月には県議会議員の間で「廃止」ではなく「休止」にしようとする論調も強まり、廃線となった後も、能登線を復活させようという動きが続いているという。
その代わりかどうかわ知らんが穴水、輪島の中間地点である三井町に、「能登空港」が2003年夏、開港している。
輪島市、穴水町、能登町にまたがる木原岳周辺に整備された空港で、滑走路長は2,000mあり、エプロン(駐機場)は小型ジェット機、プロペラ機各2機が同時駐機できるという。
日本初の試みとして、空港ビルと行政機関(奥能登行政センター)が合築されており、交通だけでなく、奥能登地域の広域行政の拠点としても位置付けられている。
又、道の駅・能登空港は、道路を拠点とした能登地域の情報や観光情報を提供しているという。
航路として当面は、東京国際空港への1日2往復のみのようだが、ただ、開港時、年間平均搭乗率が70%未満の場合は、県と地元自治体が航空会社に2億円まで損失を補填するとした全国でも珍しい「搭乗率保証制度」を導入している。
逆に目標以上の利益が得られた場合は、地元に還元するとしているが、如何かな・・?。
輪島の市街へ入って自然と脚が向いたのがやはり「旧輪島駅」であった。
木板張りの外壁と黒光りした瓦の大屋根に大商屋風の木造の建物が建ち、「ぷらっと訪夢」という、取って付けたような名前が付されている。
今度は道の駅・輪島として再出発しているようであり、廃止された「のと鉄道」の旧輪島駅の駅前広場を活用して新しく建てたようである。
だが、旧駅舎であろう・・?、白いコンクリートの建物が、和風の大屋根の奥上から見えていて、変に違和感を覚えるが・・?。
「ぷらっと訪夢」の中の半分は観光案内所になっていて、輪島の有名な祭り「きりこ祭り」(後述)の“きりこ”が飾られていて、もう半分はかってのJRの旅行センターとなっていて、みどりの窓口の看板も見える。
その奥には、元のホームの復元というか痕跡というか、旧のホームと線路があり、旧輪島駅を起想させている。
そして「メモリアルホーム旧輪島駅」と表示があった。
ホームには昔懐かしい次駅表示板があって、当駅・輪島、前駅・「のといちのせ」、まではよかったが、何故か次駅は「シベリア」としてあった・・?。
このユーモアは判らんでもないが、せめて「ウラジオストク」くらいにしてほしかった・・が?。
太古・古墳時代の頃、日本は中国などから「倭」と称され、能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの人が渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきた。
渤海交流史などを見ても、この国から何度も荒波を超えて日本へ使節を派遣していると記され、その中でも石川県にたどり着いた回数が一番多いという。
その大陸の者たちが、輪島や能登半島の先端を見つけたとき、倭の半島を島と勘違いし「倭島」と呼び、これが、現在の輪島の名の由来だといわれる。
渤海又は渤海国は、かって8世紀から10世紀始め頃まで実際に存在した国であり、今の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方のことで一部シベリヤも含み、中心がウラジオストク辺りとされてる。
これで旧輪島駅のプラットホームの駅表示に次駅名をシベリヤ(ウラジオストク)としたのは、ジョークとはいえ納得できるのである・・?。
次回、「能登・越の国」