新・日本紀行(36)志摩 「志摩の九鬼船団」
伊勢志摩スカイラインの九鬼家一族が眠る金剛證寺
金剛證寺に眠る九鬼嘉隆の墓
九鬼嘉隆の水軍の鉄甲船(想像図)
九鬼嘉隆の水軍と信長指令の鉄甲船
志摩半島東端、大王町に「波切」の浜があり、この地が九鬼嘉隆の出生地であるという。(元祖である九鬼氏の発祥地は尾鷲市の九鬼の浦といわれる)
大王崎灯台下から北にのびる小さな岬は緑につつまれた崎山公園になっていて、この一角の波切城趾に近接して「仙遊寺」がある。
仙遊寺は、九鬼氏の菩提寺で九鬼一族の墓である五輪塔が並ぶ。 その奥に波切神社が鎮座する。
戦国前期、志摩国の地頭を次々と倒した九鬼嘉隆に対し、信長が志摩国の領有を認め、九鬼氏の家督を継ぐように取り計った。
信長が伊勢長島の一向一揆(戦国時代に浄土真宗:一向宗の信徒たちが起こした一揆の総称)を鎮圧する際、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護し、敵陣攻略に活躍したためである。
石山本願寺(浄土真宗の本山寺院、本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築いた)の門主だった顕如(けんにょ)は、毛利輝元などと手を結び信長に対抗する同盟を築く。
毛利水軍600隻に対し、嘉隆水軍は300隻の船を率い摂津木津川沖で戦ったものの、多くの船を焼かれて大敗を喫した。
この敗戦に激怒した信長は嘉隆に対して「燃えない船」を造るように命じた。
この時に嘉隆が辿り着いた答えが、船に鉄の板を貼った「鉄甲船」の建造であった。
九鬼鉄甲船、毛利水軍600隻を打ち破る・・!!、
鉄甲船の建造には莫大な資金が必要であったものの信長がこの案に理解を示し、できる限りの援助と手配りをしたという。 お陰で「伊勢浦の大船」と呼ばれた鉄甲船が完成した。
1578年(天正6年)、嘉隆の率いる6隻の鉄甲船が石山本願寺の抵抗を物ともせず、堺の港に入りその力を見せつけ、その威力は凄まじく嘉隆は毛利水軍600隻を打ち破ることに成功した。 (この海戦は2005年7月のNHK「この時歴史が動いた」に登場した)
この戦功によって嘉隆は信長から志摩国に加え、摂津国を与えられる。
信長が死去した後は羽柴秀吉に仕え、信長同様に水軍の頭領として重用された。 そして九州征伐や小田原征伐などに参陣している。
1585年には大隅守に就任し、鳥羽城(現在の鳥羽市鳥羽)の築城に着手する。
別称、海賊大名と言われた。
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