新・日本紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」(Ⅱ)
千本松原; ;木曽三川公園センター内にある高さ65mの展望タワーから南を眺めた光景。南にのびる松林が千本松原で右が揖斐川、左が長良川、さらに左端にわずかに見えるのが木曽川。
木曾三川の治水工事は、豊臣の時代に木曽川の尾張藩側に先ず堤防が造られ、慶長年間には尾張・徳川家によって50kmにも及ぶ堤防が築かれた。
この堤防は、尾張藩を囲む形であったので「お囲い堤」と呼ばれ、洪水対策とあわせて西国大名の侵入に備える軍略上の意味あいが強かったともいう。
そのため、美濃地方の諸藩の堤防補強は尾張藩の過酷な使役条件に縛られるし、地理的な要素も加わり輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめらた。
1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府、並びに同御三家の尾張藩は水害に苦しむ人々の声を聞き、幕閣の間で合議の結果、三川分流計画を基本にした一大治水工事の実施することを決定した。
そして、この木曾三川下流治水工事を、九州・薩摩藩一藩で行いよう命じたのである。
この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱めるという他の目的もあったようで、それは薩摩藩は関が原合戦において西軍に付き、徳川藩祖の家康を不安に落しいれ、尚且つ70万石の領土を安堵してしまったことでもあった。
尚、幕府の放つ「薩摩飛脚」の情報では、薩摩は琉球との密貿易で資金を溜め込んでいると思われたためともされる。
薩摩藩では賛否両論の飛び交う大評定の結果、1754年(宝暦4年)2月、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、この難工事に着手することになった。
薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事であった。
幕府の資金は1万両のみで、当初見積もりは10万両とされたが、工事は幕府の方針変更によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで、工事は困難を極め、併せて費用も嵩み20、30、そして40万両という多額の出費を余儀なくされたのであった。
この間、同地の尾張藩に至近で常時見張られ、幕府からの嫌がらせもあり、又、薩摩は幕府方に専門職人を雇うよう依頼したが一切受け付けられず、資金も全額薩摩負担となり藩は困窮を極めたという。
平田靱負は御用商人らに多額の借受を藩ではなく、平田個人名義で行い返却できるはずの無い借金を重ねた。 平田は自らの死を担保にしたのでる。
工事の最中、特に油島新田締切堤(千本松原の北部地区)と大榑川(おおぐれがわ)の堰工事は予想を越えた難工事となり病死者も33名を数えたという。
工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作にもあって、幕府に対する抗議の自害者、自殺者は53名にのぼったという。
そして2年越しの1755年3月(宝暦5年)遂に完成するに至った。
この治水工事は、幕府の役人も「 日本の内は申すに及ばず、唐にも是ほどのことは有るまじく候 」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったといわれる。
工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って、同年5月25日早朝・・、
『 住みなれし 里も今更 名残にて
立ちぞわずろう 美濃の大牧 』
の時世の歌を残し自刃している。
平田靱負という人物も水と戦った一人であるが、この人は治水に関する技術・能力を買われて招かれたのではなく、どちらかといえば命令されて仕方なく赴いたという背景がある。
現在の「千本松原」(岐阜県海津町油島)は、油島堤ができあがった後に、その堤の上には地元薩摩のシラス台地に育った「日向松」を持ち運んで植えたものと伝えられている。
昭和13年、長くその精神と偉業を尊び称えるため地元の人々によって、平田靱負と薩摩義士84名を祭る治水神社(岐阜県海津町油島)が建立された。治水史上、最大の難工事といわれたこの工事を称して「宝暦治水」と呼んでいる。
岐阜県海津町、平田町は、その木曽川、揖斐川に挟まれたやや上流部にある。
輪中の町として小学生の社会科の教科書に出てくる有名どころであり、昔から、木曽川・揖斐川・長良川が流れ、風光明媚な土地柄であるが、昔から水と戦い、水害に悩まされ続け、そして、壮絶な人間模様が展開された地域でもあった。
次回も 三川合流地の因縁
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