google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 日本一周紀行: 新・日本紀行(29)名古屋 「名古屋城の金鯱」 

2015年2月19日木曜日

新・日本紀行(29)名古屋 「名古屋城の金鯱」 


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 新・日本紀行(29)名古屋 「名古屋城の金鯱」 






https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhEevge5j1L9yfTExMcRGEvabpP760_9CLJNMQNXKhGvgnp6HN_CqdYrsFeUoq-5k8RLGCAwkog2D7TMJ-8g4Wv_lJrtrwdvknk4r8_YdA7Av3B9eAYcuVUM_1vRD2ljLtKM6GQuIt-Xxs/s1600/blog.jpg



http://ts4.mm.bing.net/th?id=HN.608003125737554023&pid=1.7




これは珍しい、天主に「金鯱」が無い。(理由は下記へ)




通常の「名古屋城」




「セントレア」の構内施設、出発口、到着口等を車で巡って、そのままセントレア連絡高速路、知多半島高速路で一気に名古屋市内へ向かった。 

市内へ入って都市環状線を名古屋駅付近より丸の内のランプで一般道へ降りる。
あとはナビに従って名古屋城へ向かった。


官庁街のビルの谷間を一刻走ると、名古屋城前から二の丸の信号があり左折すると、緑に囲まれた園地の一角に路駐スペースがあった。

城の係官らしき人がいたので、
「 お城の入口はどちらですか、30分位、車は大丈夫ですかね・・? 」、
「 ああ、いいよ、150mくらい行った所に正門があるよ 」
勇んでカメラ片手に出かける。 

しかし、入城は有料だった。無一文の小生、又しても駿河・東照宮の轍を踏んでしまったのである。
外部より天守閣を望める場所を聞いて御堀端の方へ進む、確かに西側のお堀端から城内の森に囲まれながら城郭・天守閣の上半分が鮮明に見渡せた。 

白漆喰の壁に、やや緑がかった瓦屋根が各階層に優美な姿を見せている。


気がつくと、やはりというか天守閣の屋根には本城の象徴的名物である、燦然と輝く「金の鯱(しゃちほこ)」は見ることは出来なかった。 
金鯱は、平成17年(2005年)3月24日に開会した日本国際博覧会・名古屋(愛称=愛・地球博)の開会式典で展示されるためと。

愛・地球博に併せて開催された名城公園内の[新世紀・名古屋城博]のために降されていたのであった。
金鯱を天守閣から取り外して公園外の外部施設での展示は、名古屋城が1959年に再建されて以来、初めてのことだったという。


黄金のもつ不変的価値は古今東西変わることはない。
400年前の江戸開府時における徳川家康は、豊富な「」を蓄えていた。秀吉も広く天下の金鉱を求め、採掘を奨励してた。いわゆる当時は日本のゴールドラッシュ期であった。

名古屋城の小天守閣は、尾張・徳川家の「金蔵」であったともいわれる。
これらの黄金を材料にして金鯱は鋳造されたといえる。 

ところで大阪城は、名古屋城に先立つこと20余年前に築城されたが、太閤秀吉の豪奢な派手好みにもかかわらず、金鯱を飾る事はなかった。 
江戸城にしても、家康は金鯱を飾る思い付きはなかったらしい・・?。



しかるに家康は名古屋城にのみ思い切った大金鯱を飾りつけた。 
この時期になって家康の天下統一が不動のものとなり、日本の中央に位置する尾張にて天下の名城を築城し、尚且つ頂部に大金鯱を飾りつけることによって、徳川家の大いなる威勢を示したものといえる。 

結果として家康晩年の最高傑作でもあり、日本築城芸術の頂点といえるものを造りだしたのである。


因みに金鯱にも雌雄があって、雄が北側で雌が南側であり若干、大きさや形が異なっているという。

『 天下様でも かなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし 』
(東海道を行き来する旅人が、豪華な金鯱を雨ざらしにしている尾張様のご威光に感激した歌)

『 宮の浜には 魚が寄らぬ 金のしゃちほこ 陽に光る 』
(宮の浜とは熱田のことで、北の空に金鯱が光っているため魚が寄り付かないと唄われた歌)

金鯱が飾られた理由は美観を発揮し、城主の威厳を示すためでもあり、名古屋城は「尾張名古屋は城でもつ」と言われるほど天下に知られた名城である。
そのシンボルである金鯱は、江戸時代の旅人がその豪華さを称える歌を残しているほか、金鯱が光っているため熱田の浜には魚が寄らないなどと歌われた。


ところで、俗人の思惑で、金鯱に使われている金の価値は一体どの程度のものか・・?。
文献によると、江戸初期の「慶長大判」を1940枚使用したとされている。
大判は本来、恩賞用、献上用として使用された特殊な金貨で、小判のように通貨としては流通してはいない。
その慶長大判は、小判10枚分(10両)に相当するという。(等価ではない) 
10両は重さの単位で44匁・モンメで、グラムにすると165g(安土桃山時代頃には、ほぼ全国で1両は4匁4分 ≒金16.5グラムで統一された。実際、慶長小判では小判1枚に1両分の金が使用された、小判の額面も1両とされた。)を意味する。 

慶長大判の金位は68%であるから、1枚に金が112g165×0.68)使われている。
これが1940枚で、金鯱全体で217.3kgの金が使われた計算になる。 
現在の金の価値で1g=1500円とすれば、時価約3億2600万円の金が使われたことになる。
現在の金鯱は大阪造幣局で復元された物で、88.08kgの金が使われているとという、同様の計算で時価1億3200万円の金が使われていることになる。 
初代のものに比べると大分価値が劣るが、それでも凄い・・!!。


次回、名古屋城






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