新・日本紀行(132)厚木 「厚木の地名考」 (2)
さて、「厚木」の地名であるが・・、
自然環境に恵まれている厚木地域は、前述したが縄文時代前期5、6千年前のには人が住んでいたと言われている。
それらは土着民であるアイヌ民族が住んでいたともされ、厚木の地名に『 厚木は諸川の合流下(相模川三川合流点)のところにあって、アイヌ語でいうAtu(吐き出す)ki(場所)=吐き出す場所が、その起源である 』という説もある・・?。
古代、国分寺建立の際は、この厚木辺りが材木、資材の「吐き出す場所」つまり集散地であったと考えらるのである。
尤も、厚木の各所地名にはアイヌ語と思しき地名が数多くあるというが・・。
更に 「厚木・あつぎ」の地名の由来であるが・・、
木材の集散地であったところから、集め木、アツメギがアツギに変化したとされるが定説ではない・・?、 しかし、信憑性はある。
厚木周辺の北西方向の山域は丹沢山塊から派生する低山地帯を形成し、比較的人が入りやすい森林地帯でもある。
現在、神奈川県で唯一の村である「清川村」は江戸期には丹沢御林とも呼ばれた。
七沢・煤ケ谷その奥にあたる宮ケ瀬の東丹沢山一帯に繁茂する森林は徳川氏が江戸に入るに及んで「丹沢御林」と称され、後に幕府御料林とも呼ばれた。
御林は幕府直領下におかれ、江戸城修築や江戸の町並みを造営、其他の木材に使用に供された。
そして、この山林を守り、用材の諸役を課せられた村々や人々には年貢・諸役を免ぜられていたという。
当時、丹沢東部に属する村々である愛甲郡煤ケ谷村、宮ケ瀬村、大住郡寺山村、横野村の四ヶ村には、御領林の警衛なども命ぜられ、村民による巡見管理を任されていた。
併せて、この地区を御留山(おとどめやま)とも称していた。
新編相模国風土記の記事によれば、この四ヵ村の巡視のための番札を掛けた大きな欅の木が、宮ケ瀬から秦野へ通ずる林道上(県道秦野清川線)にあり、このことから、この地を「札掛部落」と名付けられたと記されている。
次回は、清川村「宮が瀬ダム」
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