新・日本紀行(130)川崎 「日本武尊と弟橘媛」
日本武尊と弟橘媛
入水する弟橘媛
橘樹郡の郡名の起こりについても、「新編武蔵風土記」に興味深い記述がある。
『 橘樹郡は、國の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に續けり、郡名の起りは其正しきことを聞す「古事記」及「景行記」等に載たる倭建命東征の時、相武國より船を浮べ給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后(きさき・皇帝や王侯の妻)の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽進むことを得し條を證として、當郡にかの弟橘媛の墓ある故に橘をもて地名とせしならんと云説あり、今按に郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛を祭れるなりと云ときは、橘媛の墓といへるもの、もし是なりといはんか、今彼社傳を尋ぬるに更に證とすべきこともあらざれば、是等のことは今より知べからず、』・・とある。
富士見台古墳は橘樹神社の裏手の丘にあり、前述のとおり弟橘媛陵であるとする説がある一方、この古墳は 6世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある。
ここ富士見台は江戸時代までは旧子母口村の一角であったが、近年になり都市化が進むと川崎市が本古墳周辺に宅地を造成し、地名も「子母口富士見台」に改められている。
かつては多摩川沿いの田園風景の中にそびえる丘であった富士見台は、現在は宅地造成や道路敷設によって削られ、古墳頂上部の一部、高さ 3.7m、直径 17.5m の部分のみが姿を留めており公園として管理されている。
その頂から見える風景も、今は宅地ばかりが続く光景となっている。
尚、日本武尊(日本書紀表記、古事記では倭建命)と弟橘媛に関しては、千葉・「木更津と袖ヶ浦」の項でチョッと詳しく記載してあります。
千葉県・木更津
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-954.html
太古の川崎には、既に北西部の丘陵地帯に人が定住していたらしく、黒川地区などでは日本の旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認されているという。
当時の多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだといわれる。
7世紀に律令体制の整備により武蔵国の一部となり、奈良時代には現在の高津区に橘樹郡衙(たちばなぐんか・郡の府)が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。
何れにしても、当時の川崎の政経上の中心は中原区、高津区辺りの現在市域の中央部にあったことが想像されるのである。
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