新・日本紀行(130)川崎 「川崎の街道」
江戸時代になり事実上の首都が江戸に移ると、川崎は京や甲州と江戸を結ぶ交通の要衝となった。
西から津久井街道、大山街道、中原街道、東海道、これらの道路を横断して結ぶ府中街道などであり、これらの街道が市域の縦横を走る。
「津久井街道」は川崎西端部の登戸から西へ、生田、柿生(かきお)、鶴川に向かい、さらに鶴見川の上流に沿って相模原市の橋本から津久井地方、甲州に至る道である。
この街道は甲州街道の脇街道でもあり、津久井・愛甲(津久井、半原は養蚕の盛んな地であった)で産した絹を江戸へ送るいわゆる「シルクロード」とも云われた。
「大山街道」は、多摩川を渡り二子、溝口を経て多摩丘陵、厚木、大山の麓の伊勢原、足柄峠を越える。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」とも「矢倉沢往還」とも呼ばれて、古くから大山詣りの道として知られ、主に現在の国道246号と合致している。
「府中街道」は、川崎市域を縦断するかたちで東京都東村山市から府中市を経てJR川崎駅に達する道路のことであるが、多摩側では「川崎街道」、川崎側では府中街道と呼んでいる。
中世の頃までは川崎を含む武蔵の国の国府(東京・府中)と橘樹郡の郡衙が置かれていた高津を結ぶ道路としてその名が付いたとされる。
「中原街道」は、小杉から東海道の平塚宿場へ到る。平塚には中原という所もあり、ここからほぼ真っ直ぐに川崎の中心・小杉を通って江戸へ延びているのが中原街道である。
現在では県道丸子・中山・茅ヶ崎線と呼ばれている。中原街道は武蔵国と相模国を結ぶ街道としてかなり古くからある道で、少なくとも中世には使用されていたらしい。
江戸期に入って東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、江戸-平塚間をほぼ直線につなぐ道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。
東海道は大名行列に使われるため、その煩わしさを嫌う庶民や商人が利用したのであるが、かの赤穂浪士達も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。
小杉(現在の川崎市中原区小杉御殿町)と平塚中原に御殿が作られると、将軍の駿府との往復の際や鷹狩の際などにも利用されたという。
さて、御存じ「東海道」であるが・・、
古来より五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ日本の中で最も重要な街道となった。
日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は53箇所(東海道五十三次)で、当初は、主に軍用道路として整備されたらしい。
宿駅は53箇所のうち、江戸より2番目が「川﨑宿」である。(1番目は品川宿)
東海道を上る旅人が昼食や休息をとる場として、また、江戸より下る旅人にとっては六郷の渡しを控えた最初めの宿泊地としてにぎわった宿場町である。
川﨑宿より、自然に拓かれたのが「大師道」で、厄除けで知られる川崎大師に至る道である。
古くから庶民の信仰を集めた川崎大師は、徳川11代将軍家斉が江戸後期に公式参拝してから、一層広く信仰されるようになったという。
引続き川﨑・「堀の内」
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