平成日本紀行(208)三国 「東尋坊」
東寿坊お絶壁
東寿坊
芦原から三国の、あの「東尋坊」までは一投足であった・・、
案内に従って進み、道路側帯が松の緑の覆われている間をぬって行くと、お土産屋や宿舎のある賑やかな一角へ出る。 東尋坊岬であった。
観光看板に荒磯遊歩道とあり、そこの岩盤の上をソロリソロリと行く、間もなく絶壁の端へ立って下を見下ろすと、全身ザワザワとして、下のほうがキーンとなって緊張感に震える。
高さ50mにも及ぶ断崖絶壁は約1kmも続き、絶壁には日本海の荒波が打ち寄せる、実に豪快であり、周囲は迫力ある眺望が展開する。
東尋坊は、安山岩(火山岩)とかいう岩塊の柱状節理(マグマが冷却固結する時に生ずる柱状の割れ目、多く岩脈・岩床・溶岩などに生ずる)、地質学的にも貴重で日本ではここ一ヶ所のみ、世界でも韓国の金剛山、ノルウェーの西海岸とあわせて三ヶ所しかないという。
冬になると、季節風による日本海特有の烈風が吹きすさび、波濤のちぎられた波屑が泡となって岩礁の間にたまり、再び風に舞い上がる「波の花」が見られるという。 ふわふわ飛ぶ姿はまるでシャボン玉のようで、この模様は冬の東尋坊のお薦めだという。
日本海に面して衝立する一大観光名所・国定公園「東尋坊」にはもう一つの顔があるという。
実は、ここは自殺の名所でもある。
平成13年の統計によると、30人が投身自殺し、保護された人は62人にのぼるという。
自殺決行者は、綿密に場所、天候を選択するそうで、豪雪や台風時には人は死なないといい、快晴の日は危ないという。
尤も、福井地方は「弁当を忘れても、傘を忘れるな」という言い伝えがあるほどの多雨地域でもある。
小浜署の、あるベテラン刑事に忘れられない体験があった・・、
昭和53年7月初の快晴の白昼、男性2人が署内に駆け込んできた。 挙式を控えたカップルが七夕の夜、小浜市の海岸のレストランを出た後「行方不明になっている・・」という急報であった。
二人は地村 保さんと浜本雄幸さんで、不明者は息子の保志さんと娘の富貴恵さんであった。
刑事は「ただ事ではない」と緊張して聞きいった。
「何かのトラブルに巻き込まれたか・・?」
スワッ・・!とばかり、小浜署や福井県警、その他の関係者達は東尋坊の海さらい、近辺の山狩りなどを続けたが手がかりは無かった。
その後も両親たちは長期間あきらめる事なく、新潟から島根に至るまで足を延ばし、情報を集め、探索を続けたという。
後年、北朝鮮による拉致事件と判明した・・!!。
刑事は、改めて命の重さ、それに拘る(かかわる・こだわる)ことの大切さを学んだという。
その地村さん、浜本さん(ご夫婦)は、過ぐる日、家族と共に北朝鮮から幾星霜ぶりに帰国した。しかし、 北朝鮮による拉致事件は、未だ、未解決のままである。
平和ボケ日本、ひ弱な日本の国情が、ここにも一つ在る。
ともあれ、昨年の自殺者は3万2千余人、ここ数年、3万人を超えたままである。
東尋坊の自殺志願者の多くは、金銭苦か夫婦間のトラブルといわれるが、昨今、元刑事に当る方が当時の東尋坊の自殺志願者に対して、13人にも及ぶ人々を諭し、善意の施しをして救命したという。
現在、地元では各所に自殺を思い止める為の句碑や看板を設置し、また、公衆電話にテレホンカードや「お経の書かれた紙」を常備し、自殺防止と東尋坊のイメージダウンを避ける努力をしているという。
又、家族や民間団体など誰かに相談ができるようになっている「救いの電話」を設置し、自殺を思いとどまらせるようにしている。 かつては、飛び降りても簡単に死なないことをアピールするため敢えて飛び込みを実演する者もいたという。
「東尋坊」という地名の由来は、昔、越前・勝山の平泉寺に東尋坊という横着な僧がおり、自分の怪力を誇って暴れまくり、民・百姓をいじめていた。
そのため、寺院から破門され岬に飛び込んで自殺したか、或は、あまりの悪僧なので他の御坊が岬に誘って突き落とした、という言い伝えがあるという。
後年、やはり平泉寺の御坊が東尋坊をいたく哀れみ、
『 沈む身の うき名をかえよ 法の道
西を尋ねて 浮かべ後の世 』
という歌を詠んで、これを海に流し供養したという。
2004年3月1日、坂井郡芦原町は金津町と合併して新規に「あわら市」が発足している。
又、2006年3月20日に同じ坂井郡に属する三国町は丸岡町、春江町、坂井町と合併し「坂井市」となっている。
次回は、吉崎