新・日本紀行(27)野間 「野間の大御堂寺」
大御堂寺(野間大坊)の本堂, 源義朝廟と小太刀の奉納
こちらは往時の因縁の地でもあった。
源義経、頼朝公の実父「源義朝」はこの野間の地で命を落としている。
義朝は京都六波羅の合戦である「平治の乱」で平清盛に破れ、この野間の地に落ちのびてきた。
ここで家臣の長田忠致、景致親子による裏切りで入浴中に謀殺されている。
丸腰だった義朝は「我に小太刀の一本でもあれば討たれはせん」と言い残して果てたという。
国道の奥まったところに7世紀に創建された古刹「大御堂寺」があり、源義朝公御廟がここに祀ってある。
嫡男・頼朝公は鎌倉幕府、開府直前にこの地に参り、父義朝公の法要を執り行い、境内の様々な伽藍建立されたという。
その後、秀吉、家康の庇護を受け更に繁栄し、現在尾張地方随一の祈祷寺として人々に広く信仰を集めているという。
家臣の謀反により殺された義朝公の墓には、その霊を弔うため今も有志者によって木太刀が多数供えられている。
あの時、「小太刀の一本でもあれば・・!」と無念の想いを託して奉納するのであろうが、木太刀は廟のすぐ近くで、サイズをいろいろ取り揃えて販売されているようである。
寺社関係者の商魂逞しき・・、と言いたいところだが。
野間灯台の錠前、義朝廟の木太刀といい、これらを持ち寄って信仰の意志を伝える日本人的精神活動には、何かの共通点が見える気もするが・・?。
この野間の地の大御堂寺には、もう一つの因縁事件があった。
戦国期の本能寺の変(1582年、織田信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺において主人信長を討った事件。
天下統一を目前にした織田信長は命を落とし、日本の歴史を大きく変える出来事となる)の後、織田信孝(信長の三男)は光秀を滅ぼしたという功績にも関わらず、清洲会議で織田家の後継者は羽柴秀吉によって三法師君(幼少・信長直系の孫・秀信)に決められてしまう。
この処遇に不満をもった信孝は家老の柴田勝家らと結び、秀吉に対して挙兵するが、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れて信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ蟄居させられる。
後に秀吉に切腹を強要され、この地で自ら自害して果てたという。 享年26。
辞世の句に・・、
『 昔より 主をば討つ身(内海)の の間(野間)なれば
報いを待てや 羽柴筑前 』
自分の身を、家臣に裏切られ殺害された源義朝になぞらえ、羽柴筑前(秀吉)に対する憎悪を剥き出しにした壮絶な歌である。
美しき知多の浜において昔、壮絶な人間模様があったようだが、今は男女の色模様で賑わいを見せている。
そんな事を知ってか知らずか、今も伊勢の海はキラキラと輝いている。
次回、常滑の「焼物とセントレア」
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